研究概要

江波研究室では、大気中に存在するエアロゾル(微小な液滴)や雲粒の空気―水界面、液相で起こる大気マルチフェーズ反応機構の解明、PM2.5やオゾンなどの大気汚染物質が肺胞や皮膚などの生体表面に与える分子メカニズムの解明、大気の凝縮相や生体内でオングストローム(Å, 10-10 m)~サブマイクロメートル(10-5 m)で発現する微小不均一性の研究、水の界面の酸性度やイオンの挙動に関する研究、新規質量分析法、レーザー、多角度動的光散乱法(Multi-Angle Dynamic Light Scattering)を用いた新規実験手法の開発などに取り組んでいます。

大気マルチフェーズ化学

大気環境における諸現象の理解のためには、気相、液相、そしてその境界相(気液界面)を含む多相(マルチフェーズ)で起こる物理化学過程のすべてを考慮する必要があります。大気に浮遊している雲粒やエアロゾルの気体―液体の境界(気液界面)や内部で起こる化学反応を解明することは、地球の気候変動を理解する上で重要なテーマです。例えば、エアロゾルに含まれる有機化合物がマルチフェーズで反応することで、親水性やサイズなどが変化していき、エアロゾルが持つ地球を冷却する効果(負の放射強制力)にも変化が現れます。江波らは、森林火災によって発生するエアロゾルの内部で起こる糖類とヒドロキシルラジカルの反応によって、親水性の高いヒドロペルオキシドなどの生成物が発生していることを突き止めました(Enami et al., J. Phys. Chem. A, 2023, 127, 2975)。このような分子レベルの大気物理化学プロセスを、独自の実験手法を用いて解き明かします。また、現在、フィールド観測と大気モデルシミュレーションを行う研究者との共同研究を推進しています(科研費 基盤研究(A), 課題番号23H00525)。分子レベルから地球規模までをつなぐ「橋渡し」研究によって、地球環境問題の解決に貢献します。

大気汚染と生体表面

PM2.5やオゾンなどの大気汚染物質は人体や農作物に有害であることが知られています。しかし、「なぜ」有害なのかに関しては、まだよくわかっていません。このような大気汚染物質の有害性の起源を調べるためには、大気汚染物質と生体表面の相互作用のメカニズムを解明する必要があります。例えば、肺胞に含まれる抗酸化物質であるアスコルビン酸(ビタミンC)はオゾンと気液界面で反応することで、毒性の高いオゾニドという化合物を生成することが江波らの研究によって示唆されています(Enami et al., PNAS, 2008, 105, 7365)。また、PM2.5を吸引した時に肺の上皮被覆液に発生するヒドロキシルラジカルによって、主要な生体分子であるグルタチオン(GSH)がグルタチオンスルフェン酸(GSOH)に酸化されます。(Enami et al., J. Phys. Chem. Lett., 2015, 6, 3935)。新規実験手法によって、肺胞や皮膚、植物表面などの生体表面で起こる化学反応を実験室で再現し、そのメカニズムを解明します。分子科学的アプローチの研究によって、大気汚染物質が引き起こす健康影響や農作物被害の問題の解決に貢献します。

微小不均一性の研究

水は地球における最も普遍的な液体であり、我々人間の主たる構成分子でもあります。しかし、自然界には 100%の「純水」は存在しないという事実はあまり認識されていません。自然界に存在する水は必ず他の化合物を含み、常に「混合溶液」として存在しています。水と親水性溶媒の混合溶液中には分子レベルの不均一性(微小不均一性)が生じることが知られています。例えば、水とエタノールの混合溶液(お酒)は「混和」しており、巨視的には均一な溶媒ですが、分子レベルでは瞬間的な偏りが生じており、その結果、理想液体から外れた挙動を示すことが、古くから知られています。さらに、このような混合溶液に疎水性の溶質が加わると、サブマイクロメートルの分子の集合体「ドメイン」 が生成することがわかってきました。このようなドメインが存在する混合溶液の気液界面や液中で起こる化学反応は、単一溶媒中で起こる反応とは、そのメカニズムや反応速度が劇的に異なることが明らかになってきました(Enami et al., J. Chem. Phys., 2019, 150, 024702, Qiu et al., J. Phys. Chem. Lett., 2019, 10, 5748)。このような微小不均一性は、大気化学反応や生体内反応、有機合成反応に重大な影響を与えている可能性があります。新規質量分析法とMulti-Angle Dynamic Light Scatteringを組み合わせた実験により、今後様々な応用と展開が期待される微小不均一性の本質に迫る研究を行っています。

水の界面の化学と物理

水が存在するところには、必ず水の界面が存在します。例えば、コップの中の水には空気-水の界面、気泡―水の界面、ガラス―水の界面が存在しています。界面は気相や液相とは異なる特殊な媒体です。例えば、空気-水界面で起こる反応の一部は、水相で起こる反応に比べて千倍以上速く進むことが知られています(Enami et al., PNAS, 2014, 111, 623)。しかし、水の界面で「なぜ」特異な反応機構が発現するのかに関してはまだよくわかっていません。近年の研究によって、その特異性には界面の酸性度やイオンの挙動が深く関わっている可能性が指摘されています。空気―水の界面は負に帯電していることが古くから知られていますが、その起源に関しては論争が続いています(Enami et al., J. Phys. Chem. Lett., 2010, 1, 1599)。水滴の分解過程を利用した質量分析法とMulti-Angle Dynamic Light Scatteringを用いることで、水の界面の特異性の起源の解明とその応用を目指しています。

筑波大学数理物質系化学域 大気物理化学分野 江波研究室
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